人物 か行

甲斐源氏(かいげんじ)

甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。

梶原景時(かじわら かげとき)?-1200

石橋山の戦いに敗れた源頼朝を捜索中に見つけるが見逃す。
後に頼朝の属し上総広常の殺害、平家追討の軍奉行、侍所別当を務めるなど重用される。
御家人を統制する立場から、御家人にの反感を買うことも多く、頼朝の死後鎌倉を追放される。
朝廷と連携するため上洛の途中、駿河国清見関にて戦となり戦死する。

上総氏(かずさし)

坂東八平氏の一つで、上総・下総に広大な領地を有し、東国一の勢力を誇ったが、その力を恐れた源頼朝によって粛清された。
※坂東八平氏
平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。一般的には千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八氏が多く挙げられる。

上総広常(かずさ ひろつね)?-1183

上総(千葉県)の在庁官人・平常澄の子。義朝に従って平治の乱に参加。
その後、房総平氏の中心であったが治承3年平清盛のクーデターで、上総が平氏の藤原忠清の知行国になり平氏と対立するようになる。
頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房に逃れると2万の大軍を率いて参加し、頼朝の優位を決定つけた。
一貫して東国に武家政権を築くことを主張し、朝廷との関係を重視する頼朝と対立するようになる。頼朝が朝廷に従うことになった1183年末、謀反の疑いにより嫡子・能常とともに梶原景時によって討たれた。

広常が「頼朝の祈願成就と東国泰平」を願った願文と共に鎧を奉納した玉前神社(千葉県一宮町)

河越重頼(かわごえ しげより)?-1185

源頼朝挙兵の際、秩父平氏の家督として頼朝方の三浦義明を、畠山重忠らと共に相模衣笠城に討った。
その後、頼朝に属し武蔵の有力御家人として木曽(源)義仲、平氏追討に尽力する。
重頼の妻は頼朝の乳母・比企尼の娘であることか頼朝に信任され、その娘は頼朝の異母弟・義経の妻となった。そのため追放された義経に連座して頼朝に誅殺された。

九条兼実(くじょう かねざね)1149-1207

九条家の始祖。1186年摂政。娘任子を後鳥羽天皇の中宮とし、のちに関白就任。
後白河法皇が没すると頼朝の征夷大将軍宣下に尽力し勢力の伸長をはかったが、土御門通親(源通親)の策謀によって関白を罷免され、中宮任子は中宮を退き、兼実の弟・慈円は天台宗座主の地位を追われ九条一門の多くは失脚していった。

九条任子(くじょう じんし)1173-1239

後鳥羽天皇の中宮。名は任子(じんし)。1196年11月兼実の失脚により宮を退出。

工藤茂光(くどう しげみつ)?-1180

源頼朝挙兵時から参陣したが、石橋山の戦いで歩行困難となり自害した。

工藤祐経(くどう すけつね)?-1193

平重盛の家人となり在京していた際に、叔父・伊東祐親に伊豆伊東荘を預けいたが、祐親が横領したとして争論となる。
祐経の妻は祐親の娘であったが、連れ戻され他人に嫁がされてしまいます。これに怒った祐経は、伊豆での巻狩りの際に祐親を襲い息子の河津祐泰を殺害します。
源頼朝挙兵の挙兵以後、頼朝方につき楽にも通じていました。平重衡が囚人として鎌倉に下ったときの宴、源義経の愛妾静が鎌倉鶴岡の社頭で舞を舞った際に鼓の役を務めた。また、平家追討での九州への出撃、奥州合戦にも参加している。
河津祐泰の子・曾我十郎祐成、五郎時致兄弟によって富士の巻狩りで父の敵として討たれました。

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工藤祐経の墓(静岡県富士宮市)

熊谷直実(くまがい なおざね)1141-1207

保元の乱は源義朝下で戦い、平治の乱では義朝の子・義平の元で戦います。しかし、京で一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、平知盛に仕えるようになります。
石橋山の戦いまでは平家に属していたが、以後頼朝に仕えるようになります。常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。
一ノ谷の戦いでは源義経と行動を共にし、鵯越を逆さ落としに下り、平家の陣に一番乗りで突入するも平家の武士に取り囲まれ討ち死にしかけている。
平敦盛を討ち取ったのち、法然の弟子となり出家する。

後白河天皇(ごしらかわてんのう)1127-1192

1157年7月天皇即位。保元の乱での勝利により不動の立場となったが、信西が宣旨、論旨を利用して追うがままの政治を行っていた。
1158年に上皇として院政を開始するが、平治に乱で信西を失い、平清盛が実権を握る形で院政は進められた。
1169年出家して法皇となる。後に近臣と平氏の争いが激化し、1177年には鹿ヶ谷事件、翌々年には清盛のクーデターが起きている。
以仁王の乱が起こると、後白河法皇の復活を望む声が高くなり、頼朝も打倒兵士はもちろんのこと後白河の救済と擁護を目指して挙兵することになる。
後白河自身に政治的な統合の意思があったわけではないが、様々な勢力が接近を求め、そこに新しい時代が生まれていった。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)1288-1339

鎌倉末期・南北朝初期の天皇(在位1318〜39)。鎌倉幕府を倒し建武の新政を実現した
後宇多天皇の第2皇子。1318年両統迭立 (てつりつ) 時代に大覚寺統から出て即位。古代的な天皇親政を復活しようとして討幕を計画し,’24年正中の変,’31年元弘の変をおこしたが失敗。隠岐に配流されたが,新田義貞・足利尊氏らの協力を得て,’33年鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を実現。しかし新政は公武の不和のため失敗し,尊氏の反乱により崩壊した。のち吉野に移り,南朝を開き尊氏の立てた北朝と対立,南北朝の内乱となり,南朝不振の中で病没した。

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)1180-1239

後白河天皇の院宣を受ける形で即位。後白河法皇存命中は院政、後白河院の死後は関白・九条兼実が朝廷を主導する形となった。
土御門天皇に譲位し、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221年)まで、3代23年に渡り院政を敷いた。
1221年、後鳥羽上皇は執権・北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こす。しかし、幕府の大軍に敗れ隠岐に配流となり、同地で崩御する

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